とある小さな山。
豊かな緑に囲まれた山頂からは、鬼の足跡と呼ばれる湖が見えた。
元親は妻である元就からの“でえと”のお誘いに、浮つく心を隠しきれずにいる。
先を歩く妻の後ろ姿から漂う艶に、
(ああ……調子に乗って「俺が先に行くぜ! 元就よ!」なんて云わなくて良かったぜ)
と思った。
中国から政略結婚で嫁いで来た頃とは違い、血色も良く自分好みになって行く妻。
二人を護衛する野郎どもの目には、元親が骨抜きにされた大型犬にさえ映って見え、そっと目頭を拭った。
【鬼の足跡】
「ここが、鬼の足跡が見える“絶景すぽっと”よ」
断崖絶壁の岩肌からは水が轟々と音を立て、崖下の湖に降り注いでいる。
「鬼の足跡見るために、この俺を誘うたぁ、あんたも本当の男心ってやつが理解出来るようになったんだな!」
「ふん、黙れ。我を戦利品の如く連れ帰った外道が今さら何を云う」
「そう怒るなって。そんなあんたも可愛いんだけどよ」
「そうか。これでも同じ事が云えるか?」
元親の足元を、どこから取り出したのか分からない日輪刀で薙ぎ払う。
「おわあぁぁ!」
元親は鬼の足跡に向かって、真っ逆さまに落下した。
ここにキャニオニング客がいたとすれば、真っ青である。
滝壺に吸い込まれてゆく鬼の悲鳴に、子分共も慌てて悲鳴を上げる。
「わぁぁぁぁ!? アニキィィ!!!! 何て事するんです姐御?!!!」
「何をするだと? 我も大概、元親には酷いいたずらをされておるのだぞ?」
「う……そりゃ、そうだがよ」
西海の鬼によるいたずら。それは、一か月ほど前に遡る。
戦に敗れ、四国に人質同然の立場で元就が連れて来られて早三月。
その立場を思いやり、元親は豊かな自然を見てもらうため、彼女を連れ出す事にした。
そこは、元親にとってお気に入りの場所の一つだった。
塞ぎがちだった元就を抱き抱え、
「綺麗だろう? お前に見せてやりたかったんだ」
眼前に広がる美に元就は不覚にも感動した。 しかし、それは西海の鬼に対して負けを認めるようなものだった。 武将として元親だけは許してはいけなかった。
「あの逞しい胸板、あの丸太のように鍛え込んだ腕で姫抱っこされる……この女子の夢、男らしさばかりを追求する貴様等になど分かるものか!!!」
拳を握り力説する元就に、野郎どもはドン引きした。
(それじゃあ、俺達もターゲットみたいじゃないですか……姉御)
敬愛する元親に妬かれるとも思えないが、元就の言葉は何かと誤解を招きそうだと思う。
(姉御の事は出来るだけ触らず、しかしアニキが心配しなくてもいい感じで護衛せねば)
と、まるで壊れ物……いや、国宝級の茶器でも預かった気分になった。
「おいぃ!!! それじゃ野郎共もお前にとっちゃ、抱かれたい男って事になるだろうが!!!」
滝から戻って来た元親が叫ぶ。
(あの池から、どうやって登って来たのだろう?)
と元就は疑問に思った。
「それならそうと、何であの時云わなかったんだ!? 元就ぃ」
「騒ぐでないわ。とにかく我は貴様の総てが許せないのだ」
「おい、許せないって何だ?! お前、さっき女の夢だって、はっきり云ったじゃねーか」
元就からすれば、元親のこういうデリカシーのなさが良くなかった。戦に負けたからとて、安芸の領主という地位がなくなる訳ではない。
元就は悔しそうに元親を睨んだ後、スタスタと来た道を引き返した。
「待てって元就」
突然、怒りを顕にしだした嫁に元親は、慌てて後ろをついて行く。
「アニキ、姉御にはあまり障らないほうが。こいつは遅い”まりっじぶるー”かも知れませんぜ」
鬼(元親)の足跡を踏みながら、野郎どももついて行った。